なんとも全容がみえない男である、という印象を一番初めに持った。得も言われぬ詩情を独特と称される歌唱法に乗せ、あらゆる音楽性を引き寄せていく。断じて雑多のようには聴こえない。折坂悠太という名の、完成された、しかしまだまだ拡大を続けそうなポップスがそこにある。
平成元年に生まれた男が、平成最後の秋に繰り出したアルバム、その名も『平成』。何か言いたげなジャケットがとても良い。真正面を突くタイトルに決して名前負けしない、はっきりと傑作とわかる作品だ。平成という時代は、殊更華やかに語られることはない。ちょうどバブルが弾けるか弾けまいかというところから始まって、大きな災害や経済停滞、悲惨な事件や政局の混乱の中を昭和の遺産だけを食い繋いできたような印象がある。ましてや「平成生まれ」の人間は多様なレッテルを貼り付けられ、どうにも虐げられてきたような、所在のないような、いずれにせよあまり明るい言葉を付随できないような何かがあるのは確かだ。そうした空気感を纏って紡がれた彼の音楽は、鋭さに寄った優しさを感じる。責任を伴った切実さとも呼びたい。元号を背負っているから、時代性を帯びているから、とも言えるだろうが、彼の音楽は決して他人事に聞こえない力を持っているのだ。
このアルバムの象徴的な楽曲として『さびしさ』を取り上げたい。
風よ このあたりはまだか
産み落とされた さびしさについて
何も語ることなく歩き始めた
この道に吹いてくれ
-『さびしさ』折坂悠太
人は皆、さびしさを飼って暮らしている。平成は孤独をあらゆる手段で誤魔化そうとした時代のように思える。技術の進歩によって、孤独の存在は随分とはぐらかされていく。それでいても、さびしさは不意に訪れる。タイムライン更新のプルダウンの合間で、風が吹き止んでしまったビル街で、シャッフル再生の途切れた沈黙で、周りに誰かがいるのに、ひとりであると思い知るタイミングは生活の端々に用意されている。自分とは感情の方向が異なる文字の羅列と、そこに連なる賛同の数に押し潰されてしまいそうになる。折坂悠太は決して僕たちを無理に救済しようとはしない。その代わりに、切実な祈りを楽曲に込めてみせる。眇々たる祈りを、時には声を張り上げ歌う。決して糾弾も断罪もせず、代弁者にもならず、祈りを捧げるその姿勢が、平成という時代によく似合う。
ただし、もし『さびしさ』を聴いて、ああ、こんな感じね、と早合点されてしまったら勿体無い。心地好いリズムが情景を支配する『坂道』、童歌のような感触の『丑の刻ごうごう』、ポエトリーリーディングのように畳みかける歌詞にダイナミズムと純文学を感じる『夜学』、その他にも至極の名曲揃いのアルバムであることは強調しておきたい。『逢引』『揺れる』なども個人的にお気に入りである。こんなことを書くのは野暮であるが、数多いるシンガーソングライターとの差別化は声だけで足りてしまう。それほどに魅力的な発声を持ちながら、甘んじることなく様々な音楽性を消化し、ノスタルジックに逃げずに今を切り取って引き受ける彼の凄まじさ。作品は元号が変わろうとも傑作として残り続けるであろう。そして折坂悠太は間違いなく、次の時代をも生き抜ける極めて優れたシンガーである。