銘々と実損

書かなくていい、そんなこと。

待川匙『光のそこで白くねむる』(河出書房新社)

光のそこで白くねむる :待川 匙|河出書房新社

 『光のそこで白くねむる』は待川匙のデビュー作であり、第61回文藝賞を受賞した小説だ。

物語の中の一人称の語りはどれだけ信用し得るのか

 小説は主人公が故郷での墓参りのために移動している場面から始まる。淡々とした文章で、なぜ主人公が墓参りに向かうことになったのかが綴られる。読み進めていると、この淡々とした文章の中で、ゆっくりとではあるが主人公に、というより主人公の語り口に、なにか違和感を覚えはじめる。しかしその違和感が決定的になることを拒否するかのようにして文章は進んでいく。

 例をあげるならば、祖母についての描写だ。祖母が亡くなっているということを、はじめは明確に描写しないため、祖母の遺骨が入る納骨堂に行くことを「祖母のところにすこしだけ寄る」と書かれるのだが、なぜ「祖母のところ」と言うのかについては説明がある。祖母が生前、主人公の言うところの「世界という入力をすべて受けとり汚言と呪詛を出力する機械」となっていたという話から繋がり、そんな祖母のことだから取扱を慎重にしなければならないのだろう、と読み手に思わせる。

 それから、「わたしはいま記憶をまちがえている」と文章中に出てくるのも見逃せない。精緻な筆致もあいまって、「わたし」は「記憶」について十分注意している人物であり、まちがえないように慎重に思い出しているのだ、と読み手に思わせる。

 店主に関する不穏な事件がありながらも、主人公自体は、朴訥で、冷静で、やや不遇で、信用できる語り手である、という印象を抱くのだが、「あなた=キイちゃん」が頻繫に登場してから、どうやら雲行きが怪しくなってくる。

 二人称の文章で、亡くなった「あなた」に語りかけるような文章が増え、「そうだったよね」という文末表現が度々登場する。これは、はじめは単純に「あなた」にやさしく語りかけているように思えるのだが、記憶の改変と確定をしていく効果があることに途中で気付かされる。なぜ気付かされるかというと、亡くなったはずの「あなた」が語り出し、反論を試みるからだ。

 ここから主人公と「あなた」の会話が始まる。宮崎夏次系の『なくてもよくて絶え間なくひかる』という漫画でも、いないはずの人物が会話に入ってきて記憶の思い違いを指摘するというシーンがあるが、小説の中でそれを自然に構成してみせるのは文章力のなせる業と感じずにはいられない。この小説をなぜ面白いと思ったかというとやはりこの部分で、存在し得ない人物が急に現れて記憶の混濁を指摘したら、あまりにも唐突すぎて今までの記述が全てひっくり返ってしまうくらい興味深いけれど、それがわりと前半部分で起こってから、面白さが最後まで持続しているというところに凄まじさを感じた。

 「あなた」とのやり取りの中で、主人公の小学生時代がどんなものだったか示されると、一人称部分の語りが正しいものだったかどうか分からなくなってくる。本当に店主と副店主は別人だったのか、祖母は「発話機械」だったのか、「あなた」は存在するのか。疑い出すとすべてがあいまいに思える。なにが本当なのだろう。と思う。しかし、考えてみれば小説に書かれていることのどれが「本当」なのかなど、誰にもわかるはずがない。現実から見れば「本当」ではなく、しかし虚構の中にも「本当」とされるものがある。なにひとつ確かではないということだけが確かだ。それは記憶の思い違いによるものなのか、それとも意図的に記憶をまちがえているのか、我々にはわからない。 

 お笑い芸人であり弁護士のこたけ正義感が2024年の12月に開催した「弁論」という漫談ライブの中で、冒頭で青年が弁護士法を読み上げ、60分の漫談が終わった後に、最初に出てきた青年の顔を画面に映した3人の中から観客に当てさせるが、実はその3人の中に正解はいない、という仕掛けで、自白の際に人間の記憶を信用するのは危ういものであると実感させるという場面があった。記憶というのは非常にあいまいなもので、60分前に目の前にいた人物の顔すら覚えていないことがあり、あるいは過去の出来事を何度も何度も思い出させられることにより、記憶の書き換えが起こることもある。この主人公は記憶を書き換えていたのだろうか。この主人公は加害者なのだろうか。

 主人公は「祖母、父、母、先生、キイちゃん。みんなもはや実際に居たか居なかったかもおぼつかない、想像のなかだけの存在に過ぎないかどうかさえもわからない」と言う。主人公の語りが読み手にとって信用できなくなってからも、主人公はまともであろうとする。もしくは、大人であろうとする。噓をついていないと主張する。そんな主人公の語りが、最後の数行で、急激に恐ろしさを帯びる。しかし、主人公にとっては事実を確かめたい、教えてあげたいという原理に沿っているだけであって、突然思考を変えたのではない。最後まで平熱のまま、不気味な読後感が残る。

 

 待川匙は、町川匙という筆名で本郷短歌会や中東短歌に参加していたことがある。その時の短歌で、とても好きな一首がある。

名前つて昏いね。ぼくらここにゐて利き手をあづけ合ひつつ眠る

町川匙『羊歯の鳥籠』(『本郷短歌 第二号』)

 彼がどれだけ素晴らしい作り手であるかは、今までの短歌を通して少しだけ知っている。『光のそこで白くねむる』は待川匙としてはデビュー作であるが、彼の書くものをもっと読みたい。そう思わせるには十分な、とても興味深い小説だった。