多面舞台を用いた視覚的な仕掛け
この公演の主な着想は、「距離」を舞台上に出現させる、というものであったという。そのために用いられたのが「多面舞台」という舞台構造だ。多面舞台において役者が演技を行う空間は正面だけではなく客席横や後ろなどにも存在する。また、今回の客席は下手側を過去、上手側を未来と見立てられたL字型になっていることも特徴的だ。このような複雑な舞台の作りにより、客席から役者の姿が見えないという現象を意図的に発生させている。この構造について詳しく説明した文をイントロダクションから引用する。
「本戯曲は二面舞台を想定して描かれている。しかし、単純に2方向から舞台を見るという構図のみならず各客席の前、あるいは奥といった場所にも舞台を設ける想定で、これはつまり、もう一方の客席からは見えづらい位置での演技が明確な演出の狙いとして、舞台上に出現するわけである。」-「月の流した涙、やがて君へ、海へ、たどり着く」 イントロダクションより
一概に距離と言っても、物理的な距離だけを指しているわけではない。上手側を未来、下手側を過去としたことで、時間的な距離についても表現がなされる。過去からは未来が見えないが、未来の自分は過去の出来事をすべて覚えているわけではないことを思わせるこの構造は極めて秀逸だ。舞台にはさらに仕掛けがある。壁がスクリーンとなってテレビ電話の映像が映し出され、壁が開かれば新たな空間が生まれ、舞台空間は無限に広がっていく。空間のすべてを舞台とする演出により、客席もまた舞台の一部に取り込まれ、観客は時折自分が観客であることを忘れてしまいそうになる。
普遍的な主題と単調な物語の中にある違和感
距離の演出方法に対し物語自体はどうだろうか。劇中に込められた「離れていてもつながっている」という主題自体は、仕掛けに比べると些かありふれたものだ。展開されるストーリーも驚きは少なく、最初に登場する太陽(明日香)と月(むつき)という対比がそのまま未来と過去、朝と夜、出会いと別れ、バックパッカーと引きこもり、などといった対比に移行していくが、繰り出される比喩に裏切りはなく、取り立てて事件も起こらずに進行していく。最初に観客が予想したおそらくこうなるんだろうな、という結末にちゃんと向かう。意味が取りにくい会話も少ない。
であれば何の疑問もなく進むかと言うとそうではない。全体を通して、挿入されるエピソードに込められた意図を見出そうとしても掴み切れないものが多い。例えば、メインストーリーを担うたんぽぽ、陽だまり、つくし3人が進路について話している最中に流れるビートルズのイエローサブマリン。「これは今まさにイエローサブマリンなんだろうな」という陽だまりの回想から続くシーンだが、なぜビートルズの楽曲の中でもイエローサブマリンだったのかは全く分からない。作・演出の村田青葉はアフタートークでこの場面のことを「とてもエモいシーン」と振り返っていた。確かに胸を突く場面ではあるが、突如出てきたイエローサブマリンへの違和感は大きい。意味や整合性を探すと苦しくなる。しかし、答えはどうやら演劇の外にあったようだ。
こちらからのコミュニケーションは演劇で。
— 村田青葉 (@ihatov870) March 2, 2019
やっぱり僕は人に会うために演劇をしているんだろうな、と思いました。
そして大学の友人からの差し入れ。
信じられない。
だから、やっぱりきっと、僕にこの劇を書かせてくれた思いは、祈りではないんです。 pic.twitter.com/a67adht0oU
初日を終えた村田青葉のTwitter
大学時代の友人から差し入れられた、イエローサブマリンの靴下。これを見て確信したことは、この公演のエピソードの多くは村田青葉(とその友人たち)の実体験に依るものではないか、ということだ。その後のカラオケの回想も、3人の何気ない会話も、限りなく彼らの実体験に近いのであろう。演劇の中だけでエピソードの意味を探し当てるのが不可能であることは、客席から見えるものだけが全てではない(見えない部分がある)という舞台構造とも合致している。村田はアフタートークなどで、「この公演は見た人がそれぞれの捉え方を持ってよい」と、それぞれの感想を持つことに関して肯定していた。これは村田と友人たちによる思い出が強固かつ揺るぎないものであることを逆説的に示しているのではないだろうか。
陽だまりの死が持つ意味
この公演は過去に村田青葉が生み出した作品のオマージュとも取れる要素がいくつか散りばめられている。4年半前の「ホープモアホームレス」から彼の作品を何度も見てきた個人的な感想として、その要素に対する感動は間違いなくあった。集大成と表現するのが相応しいと感じた。学生生活の終わりというタイミングで集大成的作品を残そうという意識は彼にもあったのだろう。
劇中の特徴からして、陽だまりという人物のモデルは村田自身だと推測される。陽だまりは劇中で死を迎えることになるが、死に至った理由は全く描かれることはない。友人たちとの距離を表現するために彼の死が必要だったとの主張もあるだろうが、そこまでする必然性があったのか疑問に思う。しかし、ここからはやや深読みをし過ぎている予想になるが、陽だまりの死は村田の学生生活の終わりのメタファーなのではないだろうか。終わりや別れを描くために、彼は死を避けられないのではないか。実は村田青葉の作品はかなりの頻度で死が登場する。彼の作品の中での死は、つまりこういうことだ、という台詞をかつての作品から引用しよう。
「死ぬってそういうことなんだ。繰り返し繰り返しやってきたことが、もうやれなくなっちゃうってことなんだ。それってなんか、寂しいね。」
ー岩手大学劇団かっぱ2015年夏期公演「グッドバイ」より
集大成といった意味でも、別れを描いた作品であることを考えても、自分自身を投影した人物の死は必要だった。そうしてそれは、これからの新生活に向けた決意のようにも思えた。
物語だけを追えばどうしても凡庸であるし、整合性がないことで説明不足な点を感じるエピソードは他者からの視点をやや欠いている。主題のわかりやすさ、語りやすさを持ってしても、不足(ロジック)と過剰(冗長さ)の両面に疑問を持たれる可能性はある。それでも彼はこの作品をこのタイミングで書かねばならなかったのだろう。触れられないものにまで届く祈りではない確かな思いが、見えないものまで見つめるやさしい視線としなやかな強度で描かれている。
ここからは雑多な感想のコーナーです。
・たんぽぽを演じた室岡夏美さん、立っているだけで圧倒的なオーラがあった。俳優の大森南朋が「カメラの前にただ立つこと、これが究極の芝居の形」と言っていたけれど、まさにこれ。何も言わないで立っている(舞台上を見つめている)という場面が多かったが、存在感が凄い。あと立ち方がオシャレ。
・アートワークが素晴らしい。イラストを担当した森優さんはじめ、パンフレットの良さ、特典のレターセットというアイデア、これらに関わった人々にすべてにおいて賞賛したい。
・「だれかがここにいないと帰ってこれなくなっちゃう」 というたんぽぽの台詞がある。これはたぶん「人は二度死ぬ、一度目は肉体的な死、二度目は忘却による死だ」という論(誰が最初に言ったかはわからないが真理だと思う)のことだと思った。「私が覚えていればみんな生き続ける」っていうことなんじゃないかな。この結論は前作の「雲は透ける、ペーパーナプキンにあこがれて」でも示されていた。フジファブリックの志村正彦はとても天邪鬼で、「忘れられたならその時はまた会える」とか「君は僕の事を僕は君の事をどうせ忘れちゃうんだ」と歌ったのだが、村田青葉は随分とストレートに記憶について信頼している。どちらも良い。
・スーツケースが墓碑になったシーンは小沢健二の「ぼくらが旅に出る理由」を想起させられた。死とは旅である。しばしの別れ。
・月と太陽の関係や、あみ子とつばめのやり取りについてはもう少し考えたい。
・実はこの公演は1回目終わった時は上に書いたような感想にまだ辿り着けなかったので、同行人とあれこれ居酒屋で語った。その時の感想みたいなものが同行人のブログの特に後半部分に書いてある。ここで生まれた疑問を、これはフィクションじゃなくてノンフィクションなのでは?という突破口で解決してから、2回目はすごく楽しめた。
・喪服なのにスニーカー&柄付きシャツはやめてくれ。想像力で補える部分とかそういう次元ではなく、これは死に対する誠実さ、物語に対する真摯さの話なんだ。上だけ着替えたから尚更。スーツケースに革靴は入っただろう。前回も衣装の件で気になってしまって理解が止まったという話を直接した。これは本当に頼む。
◆過去作の感想