銘々と実損

書かなくていい、そんなこと。

遠征部 ①ー新記録ー

誰もいない教室が好きだ。放課後、部活動に勤しむ者、帰宅部らしく帰宅する者、駅前に遊びに行く者、自習室で自学する者、様々なタイプの人間がざっと40名程存在するこの共同体の中で、僕だけが教室に残って、一人きりの時間を過ごしている。

昼間の喧騒をすっかり忘れたかのように静まり返った教室で、僕には様々な自由がある。例えば、小学校から慣れ親しんだあの机の大きさでは、教科書・ノート・電子辞書・資料集・プリント等を全て並べ切ることは出来ない。だからといって単に隣の机を持って来てくっつける、みたいなことはしない。一人になると、決まって僕ではない誰かの机で勉強をする。これを僕は「遠征」と呼んでいる。

僕は部活動に所属していないので、分類上は帰宅部ということになる。しかし、僕は部活動をしている生徒と同じくらいの時間に帰宅するから、帰宅部には相応しくないような気がする。帰宅部は、素早く帰宅してこそ帰宅部だ。僕の放課後の活動と言えば、一人の教室で過ごすことであり、人の机で勉強することである。だから僕は心の中で「遠征部」を自称している。

ところで、「遠征」というには移動距離が短いのではないかと考える方もいるだろう。自分もそう思っている。しかし他に適当な単語が見当たらなかったし、遠征部という響きも気に入っている。5mも無い距離を遠征と呼ぶ可笑しさみたいなものも自分好みだ。だからこのまま遠征部として話を進めることにする。僕の他に部員はいないので、僕は高校1年ながら早くも部長に就任している。

我が遠征部の決め事は3つほどある。1つ目は同じ机を2週間以内に使用しないこと。今日は佐藤3人分(クラスには佐藤が3人もいる)の机を用いて勉強をしている。2つ目は持ってきた音楽プレイヤーで好きな音楽を再生すること。今日はFoster the Peopleだ。そして最後が非常に重要だ。この遠征部の活動を、他の誰にも知られてはならない、ということ。

僕の教室は2階の隅にあるので、廊下を通る人はほとんどいない。部活動が終わる頃には施錠されてしまうので、教室に何かを取りに戻る生徒も少ない。僕が一人でこの教室に戻ってから、18時半前に警備員が施錠しに来るまでの間、ここを訪れる人間は、つまりほとんどいないということだ。ちなみに僕は6限が終わった後一旦教室を出て、教室から誰もいなくなるまでは図書室で時間を潰す。16時30分ごろからの2時間に満たない時間だけ、僕はやっと教室を独り占めすることが出来る。

初めて「遠征」をした時のことを、僕はもう忘れてしまった。だが、女の子の机を使えるようになるまでにはだいぶ時間を要したはずである。最初は仲の良いクラスメイトの机から始めた。より遠くへ、よりスリリングに。新記録をストイックに目指し始め、今ではどんな机でも使えるし、誰の椅子でも座ることが出来る。遠征部は運動部だと思う。やがて来る全国の舞台に備え、今はひたすら遠征を繰り返している。

今日もいつも通り、教室入りしてから佐藤机に狙いを定め、素早く世界史の勉強道具を準備し、華麗に遠征を果たした。僕は部長としての行いをしっかり果たせている。充実感がペンを走らせる。事実、僕は遠征部に入部してから成績が自分でも驚くほどに上がった。こちらもテストの点数が新記録を更新中だ。

教室にあるすべての机を極めた僕が次に目指す新記録は、音楽のボリュームを上げることと、教室の滞在時間を伸ばすことだ。そして今日も僕はひとつ新記録を達成した。音楽プレイヤーの音量は23を指している。最大が30の機器であるから、23ともなると相当な音が出ていて、教室中に『Houdini』が響いている。「Raise up to your ability」と歌いながら、僕は僕を試すような、煽るような、挑戦的な気分で三十年戦争をノート上に勃発させた。

そしてもう一つ、僕は今日16時18分に教室入りしている。今までの最長記録は先月にマークした1時間57分であり、今日はもしかしたら夢の2時間台に突入できるかも知れない。いつも4階から施錠する警備員が急な心変わりで2階から施錠しようとさえしなければ、僕は栄光の記録を手に出来る。焦りは禁物だ、と自分に言い聞かせてはいたが、少しずつ近付く達成の瞬間を前に、今日は勉強が手に付かない。黒板の上の時計を見つめながら、時が過ぎるのを待つ。

順調に長針は動き続け、そろそろ短針と一直線になろうとしている。窓の外を見れば、太陽は傾き、少しずつ神聖な雰囲気を醸し出している。残りの数十分はまさにウイニングランだ。すっかり晴れやかな気分でいた僕は、音楽プレイヤーに手をかけ、24にしてしまおうか悩んでいた。外の物音はほとんど聞こえなかった。吉田優葉に話しかけられるその時までは。

「ねえ、何してるの?」

新記録目前にして、遠征部は創設以来の危機に直面した。

 

(続く)