銘々と実損

書かなくていい、そんなこと。

村田青葉『ツーカー』(初演)

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つうと言えばかあ

 「つうと言えばかあ」の語源は江戸っ子だという。江戸っ子が「◯◯つうことよ」と言ったことに対して、相方が「そおかあ」と答えるだけで互いに理解し合う様子を見た人間が「つうかあの仲」と表現した事に由来するとされている。(諸説あり)

誰かがなんとなく呟く。もう一人が受け取る。 いつしか「つうかあの仲」は「つうかあ」もしくは「ツーカー」と略されるようになった。「つう」は、カタカナの「ツー」に変換されると、なにかの通信音、はたまたモールス信号のようなシグナルに思えてくる。

江戸っ子にも通信音にも共通するのは「発信」だ。何気ない会話、SNSの投稿、架け損ねた電話。僕たちはいつの時代も「ツー」を送り続けている。

「ツー」は、受け取り手の「そおかあ」によって「ツーカー」になる。誰かが受け取ってくれさえすれば、互いに通じ合えたことになるのだという。

これは、はたして本当だろうか。「そおかあ」と言った誰かは、何もわかっていないまま、「そおかあ」と言ったのかもしれない。受信者の「カー」は、実はとても不確かである。

 

伝達の不確かさと「ツーカー

ツーカー』は、伝達に焦点を当てた作品だ。「カー」は不確かであり、発信される「ツー」と受信の「カー」のあいだには、ちょっとした齟齬や変容がある。ラジオ体操のシーンが象徴的だ。伝達される音声情報に対し、ぎこちない動きを繰り返す登場人物の3名の姿。決して齟齬をおもしろがるわけではなく、極めて誠実に、真摯に、人々の受発信、つまり「ツーカー」の様子を捉えている。

先程も書いたように、僕たちの生活は発信と受信の連続である。だから、受発信を捉えるということはつまり、生活を描くことに他ならない。早川が食事中にティッシュを取りに行く。山手は「なんでわかったの」と言って、ティッシュを使う。まさに「ツーカー」な瞬間だが、本当は早川自身がティッシュを使いたいだけだった。

別のシーンもある。山手は早川にコンテンポラリーダンスのような動きを伝える。だが、ちっとも上手くならない。けれど、山手は「いいよ」「良くなってる」と肯定の言葉を絶やさない。受け手を信頼すること、齟齬を肯定すること。ツーカー」とは、一致ではなく差異の認識ではないか、ということを思わせる。


体験記としての『ツーカー』と観衆

劇中ではメタ的な表現もいくつか出てくるが、これはメタ表現を意識的に取り入れたのではなく、限りなく実体験に近い部分の表現を試みているからであろう。普段の生活や稽古中に演者が体験したことが、今作の重要な要素になっている。

ツーカー』は演者3人と村田青葉による制作期間中の体験記のような色が濃い。『ツーカー』の製作期間中、出演する3人と演出の村田青葉は、1人不在の稽古や稽古場日誌を用いた情報の共有を行ったという。役名ではなく本名で、生身の人間としてひとつの作品を作り、舞台に上がっている。なので、彼らの出自や普段の生活を知っていれば感銘が増す作品だったように思える。

ツーカー』の3人の関係性はとても愛おしい。劇中は基本、山手と早川による2人の対話によって進み、もう1人の室岡が舞台上でやり取りを見ている。1人が「ツー」と言い、1人が「カー」と言う。それを見て、「つうかあの仲だねえ」と評する人間がいる。「つうかあの仲」とは、実は3人の関係性なのではないだろうか。2人の関係性を認める「3人目」の存在もまた重要なのだ。

観衆も同じく「3人目」であるということが、室岡が客席に座る序盤のシーンで示唆されている。室岡は観衆として、3人目として舞台上に居る。室岡が台本を持って山手に読ませる場面で、何気ない2人のやり取りを演劇に変えているのは観衆の有無であることに気が付かされる。

 

劇作の可視化

村田青葉の劇作は、これまでは主に「届かないもの」「見えないもの」「祈りのようなもの」を多く取り扱ってきた。しかし今回はきっちりと相手の元に「届く」ことを前提とし、難解さやわかりにくさは極力廃され、可視化、可聴化されている。よって視覚的にも聴覚的にも洗練された印象だ。また、幼少期からダンスに取り組んでいた山手、室岡の身体性の美しさも際立っている。

自ら音響と照明を担当する村田青葉の姿が客席から見えるのも、可視化を意識してのものではないだろうか。前作の『月の流した涙、やがて君へ、海へ、たどり着く』では、客席から演者の姿を意図的に見えなくする演出を試みた彼が、今作では裏方もすべて見せる決断をした。この変化が興味深い。おそらく、Cyg art galleryのミニマルな空間も意識してのことだろうが、今回の彼の演出や舞台装置は最小限である。

劇中では、作家としての村田青葉の苦悩も「見える」。本公演が始まる2週間前でもまだ台本が出来上がっていなかったことを仄めかす。これもまた、メタではなく実体験なのであろう。

台本の存在を強く意識させることで、相手の言っていることをすべて理解できていることが本当に「ツーカー」なのか?そもそも「ツーカー」とはどんな状態なのか?に思いを巡らせる2人。そのやり取りは、製作期間中の『ツーカー』に対する試行錯誤を見ているかのようである。

 

「ツー」と「カー」の相互体験

室岡が独白をはじめるラストシーンは息を呑むほどに美しかった。彼女が涙を流していたように見えたのは、まさに実体験を語っているからではないか、と推測された(ほんとうのところはわからないが)。あれは初回の公演だったからこその表情だったのかもしれない。

これまで「3人目」として物語に参加していた室岡が、新たな「ツー」を生み出していく。受信するのは、観衆である我々だ。我々もまた「カー」を担い、舞台上での彼らのやり取りをひとりの人間として追体験する。受発信がまた次の体験を生み出し、『ツーカー』という作品が変容していく。

ツーカー』はいかなる変容にも耐え得る普遍性と強度を持っている。リクリエイションを経て、後半はまた別の形での公演となることが既にアナウンスされているが、『ツーカー2』のように今後も定期的に続けてほしいと思っている。今後の展開によっては、彼の代表作になり得るポテンシャルを持った作品ではないだろうか。

今回の『ツーカー』で村田青葉は間違いなくネクストレベルに到達した。この進化は彼のみによってもたらされたのではなく、演者との対話によって引き起こされている。また、彼は公演の後にアフタートーク企画を行ったり、彼が主宰する演劇ユニットせのびで「せのびのたね」「Bookmark」というワークショップやイベントを実施している。参加者との対話もまた彼の作品に生きている。

余談だが、村田青葉は「そおかあ」と口癖のようによく言う。人々の「ツー」を村田青葉が「カー」と受け止め、新たな傑作を作り上げている。『ツーカー』とは村田青葉そのものではないだろうか?とすら思うのだ。

 

 

ツーカー』公演情報

▶︎日程

9月6日(金) ⑥19:00
9月7日(土) ⑦15:00/⑧19:00
9月8日(日) ⑨11:00/⑩15:00

 

▶︎会場

Cyg art gallery

岩手県盛岡市内丸16-16 大手先ビル2階

 

▶︎予約はこちらから

Exhibition | Cyg art gallery | 東北の作家に焦点を当てた企画展ギャラリー