銘々と実損

書かなくていい、そんなこと。

Cyg art galleryプロデュース作品『雲は透ける、ペーパーナプキンにあこがれて』

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記憶から紡がれるモノローグの連続。そのモノローグは、誰が語り手であってもいいし、扱うエピソードですら、なんでもいい。要するに、誰が、とか、何を、とかはほとんど意味を成さない。意味が無いのだから、ジャグラーをマジシャンと勘違いしようと、バルセロナパリーグ選抜が戦っていようと、靴下の左右が違っていても、独白の途中で他の3人が同じ台詞を重ねようと、関係ないのである。序盤の雪にまつわる独白が核心を突いているように、残酷ながらこの世のほとんどの事象や人物は代替可能だ。ポップな舞台装飾や洗練された宣材とは裏腹に、「雲は透ける、ペーパーナプキンにあこがれて」の本質はきわめて現実的な場所にある。

 

劇は唐突なラップから始まる。HIP-HOPは紛れもなく「自分語り」によって育まれた文化だ。よって、この作品は自分の体験を語ることに主軸を置いています、という表明がラップに込められているように感じた。しかし、この作品における自分語りの「自分」はやはり代替可能である。私でないと語れない、なんてものは存在しない。ささやかな抵抗として、ラップ中で私のお気に入りとして扱われる『明日のナージャ』のハンカチ。チョイスが絶妙だ。ナージャが好き!と主張することが、放映された当時はちょっと難しかった。おジャ魔女どれみプリキュアに挟まれ、視聴率の不振により1年で打ち切られたナージャ。関連グッズの売り上げも当然良くなかった。ストーリーや世界観が、メインターゲットになるはずの子どもには難しく、あまり人気が出なかったとされる。一方で、熱狂的なファンも少なからずいた。みんなと違って私はこれが好き!を叫べるもののひとつとしてナージャは存在していた。もちろん、その対象がナージャでなくてもいいのだけれど。

 

「雲は透ける」は、誰でもいい私を、誰のものでもない私へと無理に変容させることはしない。登場する4人にはずっと名前がないし、種々雑多なエピソード同士はほとんど繋がりがない。人の感情に安易に立ち入り過ぎることも無いし、作品を通してのストーリーは一切存在しない。特定の人物の存在を示唆しないからこそ、誰のものにも変容し得る。それぞれの記憶に訴えかけ、観客を劇の中に引きずり込むだけでなく、それぞれの「私」を思い起こさせるのだ。この舞台を見た観衆もまた、自分だけの記憶を思い出すのだろう。特定の私を排除することによって、無数の私の記憶が現れ、舞台上で浮かんでは消えていく不思議な体感がある。代替可能なものから、代替不可能なものを思い出す。それこそが自分の中にある言葉、ひいては意識というものだろう。

 

生きていれば時々、不意に思い出す記憶がある。そのほとんどが、なんでもいい、なんでもないようなことだ。「雲は透ける」で掬うのはそんな普遍的で取るに足らない記憶だ。死んでしまったら残らないかもしれない。それらは私が死んだらどうなるのだろうか。身体に紐付けられた記憶の死によって、数々の言葉は消えて無くなっていくのかもしれない。それに抗うように、人々は言葉を文字に変えて、紙に書き留めてきた。現代ではこのブログのように、インターネット上すなわちクラウドに残すこともできる。しかし、それは文字でしかない。意識は残せないのだ。クライマックスで叫ばれる、「消えないように書き留めて、書き留めて、じゃあ今書き留めている私のことは誰が!」という言葉が切実に響く。意識は、私は、どこへ。

 

構造として非常に面白いからこそ、雑さや詰めの甘さは非常に目についてしまった。振付師を起用して言葉にならない感情を美しい動きによって表す一方で、必要以上に他者の身体を痛めつけるシーンが挿入されていたのが残念だ。運動会のシーンでの肘置きや馬乗りには不快感を覚えたし、鍛えていると語る男を何度も蹴るシーンは、舞台の本質になんら関係ないどころか、笑いにもならない。もちろんこのような演出が必要なこともある。だが今回に関してはやめてほしいという感想が上回った。緊張状態を緩和するための笑いのパートも、繰り返しの笑いに依存し過ぎている印象だ。また、多くの演出・台詞に必然性がない。何度か挿入されたキーホルダーのシーンは軸になるにしては意図が弱い気がするし、靴下が左右違うことも理由が不明で、壁に映された女の子の話も、なぜこの話を壁に映したのかがわからない。ひとつずつ要素を検証すると、整合性の取れない点は多い。

 

ただ、そういう作品です、と言ってしまえばそれまでだ。夢の中の出来事に辻褄が合っていないように、大切なのは整合性ではなく、人々の中に眠る記憶をどう引き出すかだろう。この作品の評価は見る人にかなり依存する。作品のストーリーは観衆ひとりひとりの中にあるのだから。

 

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