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銘々と実損

書かなくていい、そんなこと。

ハチ公前

銘々

「じゃあ、12時にハチ公前集合ね」

彼女はこう言うと、いや、書くと、得体の知れないスタンプを3個続けて送ってきた。うまいこと合わせにいったつもりで、やはり得体の知れないスタンプを僕も1回だけ送ったのだけれど、それには既読が付かなかった。うまいこと合わない。

誰と付き合っても、どんなに楽しくても、ふとした瞬間や些細な事象に、自分の中で違和感を覚えながら生きている。原因はいつも違う。例えば高校時代に付き合っていた人は、実家にご飯を食べに行ったときにそれがあった。主菜も副菜も、副々菜も副々々菜も全て肉料理。食卓が牛・豚・鳥のテーマパークだ。かつての彼女はこの滑稽な園内の中を、箸を用いて自由に行き来する年間パスポート所持者だった。その割に痩せた彼女の身体は何なのか。夢の国はカロリーまでも幻想に変えてくれるのか。彼女との狂った結婚生活を想像し、二度と彼女の家に行くことを避けた。回転寿司ではハンバーグと牛タンを食べていた。河童のマークの肉が美味しいはずが無い、と思った。思ったが、幸せそうに食べるその女を前にして、何も言わずに海老や鮪を食べた。何も言わずに2年程付き合って、突然に別れを告げられた。「だって、私に興味無いでしょ」と悲しそうに言っていた。

今の彼女への違和感は、先ほどのやり取りの中から挙げるとすると2つある。1つは、デートの待ち合わせに「ハチ公前」というあまりにも待ち合わせに適さない場所を指定してくることだ。なぜ誰か1人に会いたい時に、会う必要の無い数百人が待っている場所に立たなければならないのだろうか。地理に明るくない人のために、メルクマールとして渋谷を象徴するスポットを選出するのなら、まだ理に適っているかもしれない。いや、初めて渋谷に来た人間がハチ公前の人波に対峙して無事でいられるだろうか。まずハチ公前というエリアが広すぎる。「ハチ公前のどこにいる?」と二重に場所を尋ねなければならない。

ましてや僕は、東京での生活も5年目を迎えている。渋谷は何度も訪れた街だ。一時期は狂ったように渋谷という街の全てを網羅して遊び尽くした。最近は訪れる頻度が減ってきたが、明日行くスープカレー屋の場所も大体分かる。お店の前で、とは言わないが、せめて一番近い改札口とか、近いお店の前とか、2人だけに分かりやすい場所があるのでは、と思う。その方がストレスなくデートを始めることが出来るし、時間も無駄にしないで済む。

もう1つは、「集合」という言葉を用いることだ。集合。僕はこの響きに中学時代の部活動を思い出す。朝6時に学校集合。当時僕の家は学校から歩いて40分くらいの場所にあった。走ればいくらかは短縮されるものの、起きるのは日がまだ昇っていない4時半あたりになる。そこからまず外周といって、学校の敷地の外を5周して、終わってから親の車に乗り合わせて試合会場となる他県の中学校に向かった。着いたころにはみんなヘトヘトで試合どころではなく、低調なパフォーマンスを見せた部員達に待っているのは顧問の先生の1時間近い説教だった。何度も部活を辞めたいと思った。同級生の何人かは退部した。彼らは部員から壮絶なイジメに遭い、教室では顧問の先生からも無視された。

外周をする30分だけ、集合時間を遅らせたらいいと思った。そうすれば、もっと試合にも集中できる。もっと家で眠ることが出来る。もっと楽しく部活が出来る。だから、顧問の先生に提案するのは当然だった。自分が正しいと感じていた。帰り道に愚痴を言い合う仲間も同じことを考えているはずで、まるで正義の味方のように自信に満ちた顔で顧問に告げた。その日から僕はレギュラーの座を失った。部活仲間も僕を避けるようになった。辞めたら負けと自分に言い聞かせる日々が続いた。何と戦い、何に勝とうとしていたかはもう思い出せない。ひたすら壁に向かってボールを蹴り、跳ね返ってきたものを止めて、また蹴った。

僕は集合という言葉を聞くと、ひどく悲しく、強制的で思考停止なあの日々を思い出す。なぜ「待ち合わせ」でなく「集合」なのだろう。僕はもっと自由で、開放的で、誰に叱られることもなく、誰かの視線を気にすることもなく、ただ会いたいとだけ思っている。会いたい。好きだ。たまにこの言葉を意識的に口にしなければ、些細な違和感の連合体に潰されてしまいそうになる。

そんなことを考えながら今は「ハチ公前」にいる。正確には、ハチ公脇、とでも言った方が相応しいような場所に立って、犬に群がる人々が行き交うのを見ている。今僕はここにいるすべての人間を軽蔑した気でいるが、向かいのビルの2階のコーヒーショップの外国人たちは僕も含めて風景を見て笑っているだろうし、コーヒーショップも含めた街の風景もまた、駅の東口の新しくて高いビルの9階の人々にとっての娯楽になっている。早くここから逃げ出してしまいたいのだけれど、彼女が辿り着くまでは動けない。彼女は驚くべきことに、僕を見つけるまでスマートフォンの画面を一切見ない。昨夜のスタンプの既読はまだついていない。

「これはゲームなの。私があなたを見つけるという、すごく簡単なゲーム」と彼女は言った。先々月のことだ。現在11時48分。彼女のゲームの為に、僕は指定された場所に、指定された時間の30分前に到着して、疲弊して、だけど彼女には何も言えない。誰もいない壁に向かって、ボールを蹴って、止めるみたいに、目の前を通る人々を見て、意味のないことを考え、それをただ繰り返す。

自分の中にある感情を誰かに伝えることが出来ない。全ての人間の顔の中に、あの顧問や、部員たちの冷笑を見出してしまう。どれだけ相手が理不尽でも、自分が正しいと1ミリでも思ってはならない。自分が相手に感じる何千倍も、僕の存在は理不尽で醜いものだと考えた。最下層の最下層の最下層。末端の末端の末端。下請けの下請けの下請け。しかし違和感は僕を鋭く襲い掛かる。自分が間違っているとは到底思えなくなる瞬間がやって来る。

「何を考えているか分からないところが好き」と言われ、数か月後に「何も考えてなかったのね」と言われたことがある。違う。違うんだ、でもどう違うかを言うのも憚られる、もうそうだと言ってしまおうか、そうだ、僕は何も考えていない、何も思っていない、何も分からない、そう頭の中で思う、いや思ってはいない、じゃあ今の言葉たちは一体どうしたと言うのか、説明が付かない感情に侵されて、それを誰かがコーヒーショップから笑っていて、全ては街で一番高い場所から消費されてしまう。 

違うんだ違うんだ違うんだ違うんだ違うんだ違うんだ。もうすぐ彼女が僕を見つけに来てくれるだろう。しかし君の見つけた僕は僕ではない。一生見つかることの無い、僕にも見つからない僕が生きていて、そいつが僕の内部に侵入して―というかそいつは僕なのだからずっと中にいるのだ―違和感を生産し続けている。ずっと見つかりやしない僕が、僕以外との適合を阻んでいる。惨めで下劣で滑稽で残虐で未来永劫醜く憎い僕を形作っている。違和感は僕の中ではこんなにも膨らみ破裂しそうな程に大きくなっているのに、誰もそのことには気付いていない!

ふと顔を見上げると、彼女が立っていた。「いつからここに居たの」という僕の問いかけには答えず、わざと雑踏の中に踏み入るように歩き出して、こう言った。

「私だけが、あなたを見つけられる。すごく簡単で、深刻なゲーム」 

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